【4/4】イランの歴史をわかりやすく!【イラン革命〜現代編】
サラーム ジギャール!けんちゃんです!
前回に引き続き、早速名言から!
歴史を知れば、今がわかる。
はい、ということでイランの歴史をわかりやすく解説する企画、最終の第四弾!
前回の記事では、近代イランの受難に関して見ていきました。
今回はイラン革命から現代までの歴史の流れをわかりやすく解説していきます!
ちなみに本企画は全4回で、
以上の形でお送りしていきます♪
それでは早速みていきましょう〜!
\ この記事の最新バージョンはこちら!/
現在、本サイト(PERSIANIZED)は更新を停止しており、最新情報は姉妹サイト「PERSIAN TAG LIBRARY」にて発信中です。
本記事も、2024年2月に作成した最新バージョンがありますので、是非こちらの記事をご参照ください。
◾️イランの歴史をわかりやすく!イラン好きが観光スポットも絡めて時代系列で解説!
イラン・イスラーム共和国(1979-)
イラン革命(1979)
1970年代のイランは、欧米の支援を受けたモハンマド・レザーによるトップダウン式の大改革により、国内で貧富の差が拡大し、貧困層や脱イスラーム化によって除け者にされていたイスラーム保守派層を中心に国内で反政府デモが活発化していました。
そんな中、パフラヴィー朝に追放されパリに亡命していたシーア派の指導者、ルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事が1978年1月に新聞に出ると、聖地ゴムを中心に大規模なデモが発生すると、各地でも相次いでデモや暴動が起こる様になります。
今までの鬱憤を晴らすかのごとく瞬く間に全国に広がった反体制運動は、もはやパフラヴィー朝の手にも追えなくなり、モハンマド・レザーは身の危険を感じ翌79年の1月には国外退去します。
その後入れ違いで2月1日にホメイニーがパリから凱旋的に帰国すると、4月1日にはイラン・イスラーム共和国を樹立し、ホメイニーが提唱するシーア派イスラームに則った政府が誕生します!
アメリカ大使館人質事件(1979.11-1989.1)
イスラーム国家の樹立とともに更なる身の危険を感じた元国王のモハンマドは、モハンマドの友人でアメリカで絶大なる信頼がある元アメリカ国務長官、キッシンジャーの働きかけによりアメリカへ亡命します。
そこでイランの反パフラヴィー派は、モハンマドの亡命を受け入れたアメリカに対して抗議デモを行いますが、それが拡大するにつれ遂には暴動に達し、暴徒化した民衆が1979年11月4日にテヘランのアメリカ大使館に侵入し、アメリカ人52人を人質にとった立てこもり事件が発生します。
途中一部の人質は脱出しますが、結果的にこの人質事件は1981年1月22日に人質が444日振りに解放されるまで続き、この事件以来現在に続くまでイランとアメリカの国公は断絶されたままです。
この事件の舞台となったテヘランのアメリカ大使館は現在は博物館となっており、外壁に描かれた風刺画などはまさに反米政府の象徴的存在となっています!
イラン・イラク戦争(1980-1988)
イランの歴史を語る上で欠かせない事件の一つであるイラン・イラク戦争は1980年から1988年の8年間に渡り続き、100万人以上の犠牲者を出した戦争です。
当時のイラクは、大統領のサッダーム・フセインの元、イラクをアラブのリーダーに押し上げる為にオイルマネーで軍事を拡張し、中東内では絶大なる力をもっていました。
そこで、革命によって混乱落ち着かないイランを攻め、イラクと隣接するイランの油田地域であるフーゼスターン州をイラクに組み込むプランを実行、1980年9月ごろからイランとイラクの国境付近で小競り合いが散発する中、9月22日の未明、イラク軍の全面攻撃が始まると本格的に戦争が始まります。
すると、アメリカやイギリスなどの欧米の国々や、シーア派イスラーム勢力の拡大を懸念したサウジアラビアなどのアラブの国々がこぞってイラク側につき、イラクとイランの戦力差は歴然となりイランは苦戦を強いられることとなります。
しかし、イラン国民の義勇兵としての参戦やイスラエルなどの支援によってイラン側も勢力を盛り返してきます。
現在はイランとイスラエルは最強に仲が悪いのですが、この頃はまだパフラヴィー朝時代の良い関係がある程度続いていたことと、イラクとは仲が悪かったこともあり、イラン側につきました。
加えてアメリカも、イランのアメリカ大使館人質事件関連の交渉による取引条件として、イランに武器を供給していて、アメリカはイラクとイランの両方を支援するという奇妙な形で戦争に関わっています。
また、イランの義勇兵には16歳-17歳を中心とした少年も10万人近く動員されていたそうです・・・!
その後、戦争は一進一退をが続き、1988年9月に国連が介入するまでの約8年間戦争は続き、両陣営合わせて100万人以上が命を落とす悲惨な戦争となりました。
WW2以降で100万人以上が命を落とした戦争なんて本当に数えるほどしかありませんので、世界的に見てもイラン・イラク戦争は非常にショッキングな戦争です。
核兵器製造疑惑による経済制裁(2007-現在)
世界には191か国が参加する核不拡散条約(NPT)という条約があり、これによって核兵器の所持は、条約締結時に所持していた米・英・露・仏・中のみにしか認められないとなっています。
しかし、2002年にイランが秘密裏に核施設を建設していたことがわかると、イランに対しての核兵器開発疑惑が持ち上がり、以降欧米諸国を筆頭に国連からイランの核開発の規模縮小を提示するが、イランは「原子力活動はあくまでも発電などの平和的利用の為」と核兵器開発疑惑を否定し、国連の提示を断ってきました。
そこで国連は2007年にイランへの経済制裁の決議を採択し、欧米を筆頭に制裁を科すことになり、これによりイランの経済活動は制限をかけられ、経済の停滞が続くこととなります。
しかし、2015年にはP5+1(英米露仏中+独)とイランの間で、核開発の縮小や施設の定期視察を受け入れることで経済制裁を段階的に解除していく、いわゆる「核合意」が締結されます。
その後、イランの経済は向上するかと思われましたが、2018年5月にアメリカのトランプ大統領が一方的に核合意から離脱することを発表し、追加の経済制裁を科すこととなります。
2019年5月にはアメリカはイラン原油の全面禁輸に踏み込むと、欧州諸国もイランへの経済支援をしにくい状況になり、イランはそれに対抗して核合意の停止を宣言し、核開発を強化していく対抗措置をとったことで、核合意はもはや空前の灯火となっています。
現在の世界中が注目する議題となっているので、今後の動きも要注目です!
おわりに
以上にて、合計4回に渡るイランの歴史シリーズは終了となります!いかがでしたでしょうか。
ニュースを理解するためにも、旅行を楽しむためにも歴史を学ぶことは非常に重要なことと思いますので、是非これを機にイランの歴史にも興味を持って頂けますと幸いでございます!
以上、4記事に渡るお付き合い、誠にありがとうございました♡