イランとアメリカの関係
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イランとアメリカの関係はなぜ悪い?わかりやすく解説!

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  • サラーム ジギャール!けんちゃんです!

    現在も頻繁にニュースを賑わす、イランとアメリカの関係。

    経済制裁だ核兵器がなんだかんだお互いをディスりあってますね。

    実はそもそもイランは40年ほど前までは親米国家だったのに、なぜそんなに仲が悪くなったのでしょうか。

    ということで、今回はイランがいかに親米国家となり、そこからなぜ反米国家へと変貌していっのたかを、歴史を紐解きながら見ていきましょう!

    遡ること100年前・・・

    1900年頃の世界はヨーロッパ列強が世界の富を占めていた時代で、イランもイギリスやロシアなどのヨーロッパ列強の半植民地のような感じでした。

    例えば、1908年にイランで初めて発見された石油も、翌年に設立されたイギリスのアングロペルシアン石油会社が石油利権の全てを取り仕切り、イランはイギリスから年間利益の16%をロイヤリティを受け取る感じになってましたし、その他も不平等条約が多々あり、イランの人々の暮らしは苦しいものでした。

    まあこれはイランに限らず、列強以外の多くの国がそうだったと思います!

    この頃のイランはガージャール朝のシャー(王様)の独裁政治でした。

    ゴレスタン宮殿

    ガージャール朝ののナーセロッディーン・シャー

    シャーはヨーロッパ列強に利権を売り捌く見返りとしてゴージャスな暮らしをする、という中々の鬼畜っぷりを発揮しており、ガージャール朝はイラン人にとっても黒歴史みたい感じになってます。

    現在も、テヘランの有名観光地であるゴレスタン宮殿へ行けば、当時のシャーのゴージャスな暮らしぶりを見ることができます!

    ゴレスタン宮殿

    ゴレスタン宮殿

     

    モサッデグ首相による民主化の波

    そんな時代ですから、当然イラン国民は「外国の利権を国内に戻して、それを国民へ還元しろ!」となりますよね。

    そんな中、1941年に当時のパフラヴィー朝の2代目の王となったモハンマド・レザー・シャー時代には、王の権力は徐々に薄らいで行き、次第に選挙で選ばれる首相に移行していきます。いわゆる民主化に向けての流れですね。

    その流れの中で、1951年に首相に就任したモサッデグさんが思い切った行動に出ます。

    モサッデグ首相

    モサッデグ首相

    それが「石油会社の国有化宣言」です。

    今までイギリス(アングロペルシアン石油会社)が仕切ってたイランの石油を、自分らで仕切ることにしたのです。

    自分らで仕切ったら、今ままで10%とかだった利益が100%イランのものになりますからね。

    ただ、もちろんイギリスは儲からなくなるので猛反発。

    国連を絡めて世界中に「イラン石油ボイコット」を呼びかけた結果、イランの石油なんて誰も買ってくれなくなり、イランの経済は大混乱に陥ります。

    そんな中、日本の出光がイギリスの圧力に反発しつつ、イランから石油を輸入したのが、岡田くん主演の「海賊と呼ばれた男」で映画化もされた日章丸事件ですね!

     

    CIAの援助でのシャーの独裁体制の復活

    で、そんな時代にイランの石油に狙いをつけた国こそ、アメリカでした。

    当時イランではトゥーデ党というイランの共産党が力を伸ばしていて、実際にイランの油田地域にも大きな影響力がありました。

    共産党といえば、この頃アメリカは共産主義のソ連とバチバチの冷戦中でしたので、

     
    イランの油田がソ連のものになるなんてガチでヤバい!
     

    てゆうかなんなら俺らも石油利権欲しいし!
     

    ということで、アメリカはイランにその手を伸ばします。

    そこでアメリカが手を組んだのが、モサッデグらの民主派政治家に追いやられた、パフラヴィー朝の王であるモハンマド・レザー・シャーです。

    アメリカは、ダレス国務長官やCIAを中心とした「アジャックス作戦」の元で、買収したイラン人たちにクーデターを起こさせ、イランの民主派を弾圧し、シャーの独裁政治へと転換させたのです。

    クーデター成功を喜ぶ支持者

    クーデター成功を喜ぶ支持者

     
    でも、ちょっと待ってくださいね。
     

    当時のアメリカなんて「社会主義?アホなこと言いなさんな。時代は資本主義、民主主義でっせ!」と言ってソ連と戦ってたのに、イランに関しては民主主義を弾圧し、独裁主義を後押ししていたんですね。

    そんなアメリカの外交的矛盾はあるにせよ、この時点で、シャーによる100%親米のイラン政府が完成します。これが1953年の話です。

     

    白色革命の元での農地改革

    CIAの計画の元、晴れて独裁者の地位に返り咲いたモハンマド・レザー・シャーは、その後もアメリカの援助を受け大規模な社会改革を行い、反対する勢力には、これもアメリカの支援によって結成されたサヴァクという秘密警察が弾圧していきます。

    パフラヴィー朝は以前より、女性への参政権付与などのイランの世俗化(脱イスラーム化)にも非常に力を入れていたので、それに反対するイスラーム法学者たちもこの弾圧の対象となっていました。

    脱イスラーム時代のイランはこんな感じ!

    今では考えられないほど西洋化されていますね!!

    そして、経済改革では、1963年から行われた白色革命と呼ばれる大改革に含まれる農地改革が、今後の流れに大きな影響を与えるようになります。

    これは、大地主が持つ農地を制限し、過剰分を農民に有償で再配分するという改革でしたが、結果として中層以上の農民にはメリットがあったものの、下層農民には十分な土地が購入できず、かつそもそも配分資格の無い農民や遊牧民なども多く存在していました。

    加えて、1970年代には農業の機械化も進んだ結果、地方の多くの農民が仕事を求め都市部へ移住することとなります!

     

    オイルショックバブルでの格差の拡大

    そんな中、1973年頃に起こったオイルショックによって原油価格が爆上がりし、イランもその恩恵を受けて大きく経済も成長します。

    政府は増えた収入を都市開発に投資することで、建築業界は大盛り上がり。

    農村から都市部へ流入した低所得者が労働力となり、首都テヘランにはあれやこれやとビルや道路が整備され、その結果1956年には150万だった人口も1976年には約3倍の450万人まで増え、まさにテヘランは一大都市へと発展します。

    しかし一方で、あまり投資されなかった農村部との格差も急速に拡大し、貧富の差が非常に目立つようになります。

    1976年度の都市部と農村部の比較するとこんな感じ。

    都市部 農村部
    電気普及率 85% 24%
    水道普及率 84% 14%
    識字率 65% 30%

    この数値を見てみると、もはや同じ国とは思えないくらいの格差ですよね!

    動画で比較するとこんな感じ。

    都市部

    農村部

    それに加え、70年代後半になると原油価格も安定することで経済の伸びも鈍化し、オイルショックバブルに伴ったインフレが低所得者を直撃、失業者も爆増しイラン社会はカオスと化します。

    この時の都市部のスラム街はこんな感じだそうです。

    これを見ると、所得が高くない人にはスカーフやヒジャブを着用しているムスリマが多いことがわかりますね・・・!

     

    イラン革命で反米体制の完成

    そんなこんなで格差が爆増し、カオスとなったイラン社会に現れたのが、イラン革命の指導者、ホメイニーさんですね。

    イランの歴史_ホメイニー

    ルーホッラー・ホメイニー

    ホメイニーさんが唱える政治スタイルとしては、非常に簡素化して言うと、イスラームの教えに則って政治を行おう!というものです。

    そんなアイデアが、イスラームを軽視してきたパフラヴィー朝政府によって抑圧されていた宗教者や貧困層に共鳴し、イラン全国でパフラヴィー朝、そしてその後ろ盾となっていたアメリカに反発するデモが拡大し、最終的にはイラン革命としてパフィラヴィー朝に変わってイラン・イスラム共和国が誕生します。

    そして、イラン・イスラム共和国のリーダーにはホメイニーさんが就任し、イスラームの教えに則った現在の政治が始まるのです。

     

    アメリカ大使館人質事件

    そしてさらにその中で反アメリカ体制が決定的になったのが、アメリカ大使館人質事件です。

    この事件は映画化もされていますね!一度見てみてください!

    この事件は、ホメイニー派の一番の敵であるモハンマド・レザーの亡命を受け入れたアメリカに対して、イスラーム学徒を中心とした暴徒たちがテヘランのアメリカ大使館に突撃し、そのまま444日間に渡る立てこもる、という事件です。

    当時のニュース映像がこちら。

    444日ってヤバいですよね!1年2ヶ月の立てこもり事件・・・!

    これにより、イラン人だけではなくアメリカ人にも「反イラン」の感情が根付くようになり、それ以来お互いの溝は大きいままで、現在も国交が正常化されない状態が続いている、といった流れになります。

     

    今記事のまとめ

    というような流れで現在のイラン・アメリカの関係は成立し、その後もイラン・イラク戦争や核兵器問題などでお互いの対立は深まっていくことになります。

    このあたりはまた別記事で解説致しましすね!

    ということで今回の流れをまとめてみると、

    ・ヨーロッパ列強の半植民地状態(1950年頃まで)
      ↓
    ・イランで反列強、民主化運動が立ち上がる(1950頃)
      ↓
    ・アメリカの支援の元、パフラヴィー朝に民主化運動が潰される(1953)
      ↓
    ・パフラヴィー朝の改革と反対勢力の弾圧(1953-)
      ↓
    ・オイルショックもあり経済発展するが、格差拡大(1970頃)
      ↓
    ・ホメイニーが貧困層やイスラーム支持層と共にイラン革命を起こす(1979)
      ↓
    ・弾圧の元となったアメリカに反発する政府が完成(1979)
      ↓
    ・アメリカ大使館人質事件でお互いの溝が深くなる(1979)

    という感じですね!

     

    さいごに

    この記事を執筆した後に読み返してみると思ったのですが、この記事めっちゃ反米・反パフラヴィー朝な感じになってますね・・・笑

    というのも、この記事は非常に反米スタンスになってしまっているものの、今のイランの人々がそうであるか、というと全くそんなことはありません!

    私の知り合いのイラン人でいうと圧倒的に親米の人が多いですし、パフラヴィー朝時代は宗教的制限も少なく、非常に経済も発展したため、革命前の体制に戻って欲しい!と思っている人も少なくないです。

    このあたりの温度感は、実際にその場に行き、実際にイランの人と話し、実際に現地の人の思いを肌で感じることこそ、現状を理解する一番の近道だと思いますので、是非みなさんも一度イランに行ってみてください♡

     

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    けんちゃん
    25歳の時に行った世界の旅で、一番ハマった国がイラン! それ以来、イランの虜になりました♡ ペルシャナイズドの運営を通じて、もっとたくさんの方々にイランの魅力を感じて頂くべく、情報発信してまいります!