【1/4】イランの歴史をわかりやすく!【古代〜ペルシャ帝国編】
サラーム ジギャール!けんちゃんです!
早速名言からいきますね!
歴史を知れば、今がわかる。
はい、ということでイランの歴史をわかりやすく解説する企画、第一弾!
イランは世界の歴史の中でも古代から高度な文明を持った国で、世界で初めて古代オリエントを統一するという偉業を成した国でもあります。
今回はイランの古代からオリエントの統一の時代までの歴史の流れをわかりやすく解説していきます!
ちなみに本企画は全4回で、
第2回:イスラーム化〜ペルシャ復興編(650-1800頃)
第3回:近代イランの受難編(1800-1979頃)
第4回:イラン革命〜現代編(1979-現在)
以上の形でお送りしていきます♪
それでは早速みていきましょう〜!
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◾️イランの歴史をわかりやすく!イラン好きが観光スポットも絡めて時代系列で解説!
古代のイラン
みなさん、古代の4大文明と言えば、覚えてますでしょうか?
・エジプト文明
・インダス文明
・黄河文明
の4つですね。
残念ながらこの中にイランの文明はありませんが、メソポタミア文明がお隣のイラクを中心に栄えていたこともあり、イランも古代から文明が栄えていました。
イランの歴史は遡れば1万年前などにも存在しますが、そこまでいく非常にマニアックな話になるので、イランで文明が生まれた約5000年前まで遡って歴史をみていきましょう〜!
エラム(BC3200-BC539頃)
イランの歴史上、最初の文明が生まれたのがこのエラム時代です。
紀元前3200年ごろから現在のフーゼスタン州(イランの南東)に住んでいたエラム人が興した国で、文字や言語を含むこの時代の文化や政治制度は、その後のイランの歴史のベースとなっていきます。
現在の観光スポットとしても、カシャーン近郊にあるテペ・シアルクはエラム時代初期(前3000年頃)のジッグラトですし、アフワーズ近郊のスーサは長期間に渡りエラム帝国の首都として栄え、その遺跡は世界遺産にもなっています。
また、スーサの近くにある同じく世界遺産のチョガー・ザンビールもエラム時代のジッグラトですが、約3000年前のものとは思えない程、保存状態もいい遺跡ですので、イランに行った時は是非とも見たいですね!
メディア(BC715-BC550頃)
紀元前715年頃には、エラムとは別にイランの北の方でメディアという国が成立します。
メディアはエクバタナ(現在のハマダーン)を中心にグングンと勢力を伸ばし、前612年には当時メソポタミア(現在のイラク)を中心に絶大なる力を持っていたアッシリアを、お隣の新勢力・新バビロニアとタッグを組んで打ち負かし、現在のイランの殆どを統治する様になります。
この時期になるとエラムも非常に弱体化が進み、古代オリエント(いわゆる中東)は、
・新バビロニア
・リディア
・エジプト
この4つの国がそれぞれ力を持つこととなります。
また、イラン以外含めオリエントの詳しい歴史に関しては、楽しく分かりやすい!?歴史ブログさんが非常にわかりやすくまとめられてますので、ご興味ある方はどうぞ〜!
ペルシャ帝国の誕生
そんなこんなで4勢力が均衡する古代オリエントに、我らがイランの時代がやってくるのです!
それこそが!!!!
アケメネス朝ペルシャ
です!
アケメネス朝はイランの歴史を語る上でスーパーウルトラ重要な意味を持つ国なので、イラン旅行に行くのであれば覚えておいて損は無いです!
その理由は、アケメネス朝はイランを統一するばかりか、その勢いで古代オリエント(中東)を世界で初めて統一しちゃうのです。
このことは、2000年以上の時が経った現在でも、イラン人にとって誇り高き歴史として認識されています。それほど重要な王朝なのです!
ということで、そんなアケメネス朝の歴史をみていきましょう。
アケメネス朝ペルシャ(ペルシャ系 / BC550-BC330頃)
紀元前550年にアンシャン(現在のシーラーズ付近)はペルシャ人のキュロス2世によって統治されていましたが、あくまでも扱いはメディアの属国という形でした。
そんな中、キュロス2世はメディア相手にクーデターを起こしそれが成功、アケメネス朝ペルシアの初代王として、あれよあれよという間にエラム・リディア・新バビロニアを倒し、前525年にはキュロス2世の後を継いだ息子・カンビュセス2世がエジプトも倒し、晴れて古代オリエントを統一します!
その後、3代目の王・ダレイオス1世の時代(BC521-BC486)には、東はパキスタンから西はギリシャの方までを統治し、アケメネス朝は最盛期を迎えます。(しかし、ギリシャの本丸には勝てず・・)
現在も人気観光地となっているペルセポリスは、このダレイオス1世の時に建てられた都(宮殿)で、オリエント中のアケメネス朝の属州の臣下たちが貢物を持って集まったとされており、「謁見の間」にはその姿が彫刻として刻まれています。
正直ペルセポリスなんて、ただ遺跡を見るだけだと「ああ・・・デカい遺跡やなぁ・・」くらいしか感想出ないかも知れませんが、「2500年も前に偉大な王に会うために、オリエント中から人が集まる様なヤバイ空間だった」って考えて行くと、すごい胸が熱くなる感じしませんか?笑
ペルセポリスに行くのであれば、アケメネス朝の歴史をさらっとでも学んでから行くことを非常におすすめします!
というのも、私が初めて行った時は何も勉強していなかったので、全く面白くありませんでした!笑
で、そんなこんなで誰もが羨む様な繁栄を極めたアケメネス朝ですが、ダレイオス1世の孫の孫の孫であるダレイオス3世の時代に、ギリシャのマケドニア王国、アレクサンドロス大王に滅ぼされ、ペルシャ帝国の歴史も一旦閉じることとなります。(紀元前330年)
ここまでの流れが1枚になっているgifを見つけましたので貼っておきます〜!
セレウコス朝シリア(ギリシャ系 / BC312-BC248)
アケメネス朝がアレクサンドロス大王に滅ぼされ、イラン全域はマケドニア王国によって支配される様になりましたが、間も無くアレクサンドロスは他界、その後継者争いの末にセレウコス1世が建てたセレウコス朝シリアによってイランは支配される様になります。
セレウコスはマケドニア王国出身のギリシャ人ですので、この時代のイランは「ギリシャ人によって支配されていた時代」となります。
セレウコス朝はシリアを中心として、オリエント世界にギリシャ的文化や社会を浸透させ(ヘレニズム)、各地にギリシャ式の都市や軍事植民地を築き、そこにギリシャ人を定住させて統治を行っていました。
しかし、セレウコス朝が力を入れていたエリアは現在のシリアやイラクあたりで、イランは殆どほったらかしの様な感じになり、その中で地元の有力者たちが次々に独立する様になります。
そんな状況で頭一つ抜け出したのが、イラン北東部に住むパルティア人でした。
アルサケス朝パルティア(パルティア系 / BC248-AD224)
当時、パルティア地方の有力部族の長であったアルサケス1世が前248年にアルサケス朝を成立させると、100年ほどでセレウコス朝からイランのほぼ全域を奪い取り、イランを統治する様になりました。
その後パルティアは順調に領土を広げますが、ローマとの戦いによって国は弱体化していきます。
サーサーン朝(ペルシア系 / 226-651)
アルサケス朝の元、現在のシーラーズ付近を統治していたペルシャ人のアルダシール1世はパルティアに対し反乱を起こし、226年にサーサーン朝を建国します。
これは、BC330年に滅亡したアケメネス朝以来、約500年降りとなるペルシャ人の王朝の誕生となります!
一般的に「ペルシャ帝国」というと、このサーサーン朝ないしアケメネス朝のことを指します。
サーサーン朝は成立以降、勢力を順調に拡大し、アケメネス朝の様にオリエントの大部分を統治しました。
現在でもシーラーズがあるファルース地方にはサーサーン朝にゆかりのある遺跡も多く、2018年には「ファールス地方のサーサーン朝考古景観」として8件の遺跡が世界遺産に登録されています!
また、サーサーン朝はゾロアスター教を国教としたことでも有名で、それまでは単なる土着宗教に過ぎなかったゾロアスター教を体系的にまとめ上げ、啓典や教会の整備なども行いました。
しかし、そんなペルシャ人の王朝も、あの世界的勢力に一蹴されることとなります・・・・
つづきは・・・
はい、ということで今回はここまでです。
今回の流れを復習すると、
↓
・その後のアッバース、イラン中部で興ったメディア王国が全土を支配
↓
・ペルシャ人のアケメネス朝がオリエントを統一
↓
・ギリシャ人のセレウコス朝シリアに取って代わる
↓
・パルティアのアルサケス朝が取って代わる
↓
・ペルシャ人のサーサーン朝が取って代わる
こんな感じですね!
ということで、次回はこちらの記事に続きます〜!