【3/4】イランの歴史をわかりやすく!【近代イランの受難編】
サラーム ジギャール!けんちゃんです!
前回に引き続き、早速名言から!
歴史を知れば、今がわかる。
はい、ということでイランの歴史をわかりやすく解説する企画、第三弾!
前回の記事では、アラブの侵略からペルシャ復興までを見ていきました。
今回はその後の、近代のイランの王朝が誕生以降を見ていきましょう!
ちなみに本企画は全4回で、
第2回:イスラーム化〜ペルシャ復興編(650-1800頃)
第3回:近代イランの受難編(1800-1979頃)【今記事】
第4回:イラン革命〜現代編(1979-現在)
以上の形でお送りしていきます♪
それでは早速みていきましょう〜!
\ この記事の最新バージョンはこちら!/
現在、本サイト(PERSIANIZED)は更新を停止しており、最新情報は姉妹サイト「PERSIAN TAG LIBRARY」にて発信中です。
本記事も、2024年2月に作成した最新バージョンがありますので、是非こちらの記事をご参照ください。
◾️イランの歴史をわかりやすく!イラン好きが観光スポットも絡めて時代系列で解説!
近代イランの受難
サファヴィー朝の繁栄などでペルシャの力が再興してきたと思いきや、ここからイランは圧倒的受難の時代を迎えます。
18世期頃の世界と言えば、大航海時代を経て世界中の富をかき集めたヨーロッパ諸国が、圧倒的な資金と軍事力で世界を牛耳っていく時代です。
イランも、もれなくヨーロッパ諸国の食い物にされ、まるで開国直後の日本のような内憂外患の時代に突入します。
ガージャール朝(1779-1925)
ガージャール朝はイラン北部やアルメニアなどに住むガージャール部族の連合軍が建てた政府です。
18世期からガージャール部族はデヴェルーとコユンルーという2つの連合軍に分かれ争っていましたが、コンユールのアーカー・ムハンマド・カーンが1779年にガージャール朝を立てると、敵対するデヴェルーやザンド朝を抑えて、イランの王朝としては初めてテヘランを都とします。
以降、自らをアーガー・モハンマド・シャーと名乗りアフシャール朝を滅ぼすなどしてイラン全域を手中に治めますが、1797年にあっけなく召使により殺されちゃいます。
その後、ファトフ・アリー・シャーが2代目のシャーとなりますが、ここから外国勢力のとの関係が急激に悪化していきます。
1800年にアゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアの領土をめぐり、第一次ロシア・ペルシア戦争が勃発しますが、1812年に敗戦、翌13年に結んだゴレスターン条約によりジョージアなどをロシアに奪われます。
更に1826年には第二次ロシア・ペルシア戦争が勃発し、これにも敗戦したガージャール朝は1828年に結ばれたトルコマーンチャーイ条約で、
・ロシアの領事裁判権を認める
・カスピ海のロシア軍艦の独占通行権を認める
・500万トマンの賠償金
という踏んだり蹴ったりの不平等条約をロシアに結ばされます。
そんな中、1836年にファトフ・アリーの後を継いだ3代目、ムハンマド・シャーの時代には「グレートゲーム」と呼ばれるロシアとイギリスの覇権争いが激化し、イランも巻き込まれることとなります。
北からはロシア、南からはイギリスの圧力により板挟み状態の状況に加え、国内ではバーブ教というイスラームから発展した宗教の信者による大規模な反乱が起こるようになり、まさに内憂外患に陥ります。
そんな中、1848年に4代目に就任したナーセロッディーン・シャーはロシアの協力を得て国内のバーブ教徒の反乱を抑えつつ、敏腕政治家アミール・キャビールを中心に国内の改革を行います。
国内の改革は、アミール・キャビールが以前オスマン帝国に派遣されていた経験からヨーロッパ式の近代化を目指す大改革を行います。
しかしナーセロディーンはアミール・キャビールが行う改革には不満を持っていて、最終的にはアミール・キャビールをカシャーンのフィン庭園で暗殺してしまいます。
フィン庭園は現在「ペルシャ式庭園」として世界遺産にも登録されていて、観光客にも人気のスポットとなっていますが、こんな黒い過去もあるんですね・・・!
その後ナーセロッディーンはイギリスやロシアなどのヨーロッパ列強の都合の良い様に扱われ、数々の不平等条約を結んだり、国内の利権を外国に売り飛ばしたりともう散々・・!
特に、現在の世界的通信社の創業者であるイギリスのロイター男爵に鉱山や銀行に関する利権(1872)を、同じくイギリス人のタルボットにタバコの利権を付与(1890)したことで国内から猛反発を受け、イランは大混乱に陥ります。
ちなみにこのナーセロッディーンの肖像画が描かれたコップやシーシャなどは非常に多く存在し、イランで見かけたことがある方も多いのではないでしょうか?
ナーセロッディーンは歴代の王様の中でも飛び抜けて評判が悪いですが、紅茶文化をイランに広まったのがこの時代、ということで多くの食器に描かれています!
そんなナーセロッディーンはその後1896年に暗殺され、5代目には息子のモザッファロッディーン・シャーが就任します。
その後、1901年にイランで石油が発見されると、その利権もすぐさまイギリスのものとなり、新たに設立されたアングロ・ペルシアン石油会社というイギリスの企業がイランの石油関係を仕切ることとなります。
この時すでに、イランはヨーロッパ列強の半植民地状態になります。
イラン立憲革命(1906-1911)
ガージャール朝政府の専制政治により、この時期のイランの経済や暮らしは非常に不安定となり、国内には数々の反乱分子が存在していました。
そんな中、反乱分子が集結し、憲法と議会の設置を求める民主主義運動・イラン立憲革命(1906-)が起こります。
日本でいう1870年代から始まった、板垣退助率いる自由民権運動のようなものですね!
その結果、1906年には議会が開設、憲法が発布されますが、ガージャール朝の後ろ盾となっていたロシアやイギリスなどの妨害もあり、結局のところ1911年には元のガージャール朝による専制政治にもどり、立憲革命は失敗に終わります。
1915年には第一次世界大戦が始まると、イランはオスマン帝国の侵略や英露軍の占領などでカオスを極め、その結果ガージャール朝も弱体化し、1921年には軍人であるレザー・ハーンがクーデターを起こし、1924年にはガージャール朝を廃止させ、翌年パフラヴィー朝を成立させます。
パフラヴィー朝(1925-1979)
レザー・シャーとしてパプラヴィー朝を起こしたレザーは、カオスと化したイランを立て直すべく、
・政治の非宗教化
・軍事、体制の西洋化
に力を入れます。
その結果、不平等条約の撤廃や鉄道開設などの功績も出していくなどの近代化政策には多くの支持を得ますが、脱イスラームの点では国内の保守派の反発を招くこととなります。
更に、1945年に第二次世界大戦が勃発するとイランの状況も大きく変わります。
大戦に対して、当初はイランは中立を宣言していましたが、国内でのイギリスやロシアの支配から脱する為、徐々にナチスに接近していった結果、イランはロシアとイギリスによる侵略を受けます。
その結果、英露米に油田や鉄道を奪われ、レザー・シャーは失脚させられ、息子のモハンマド・レザーが代わって王位につきます。
モハンマド・レザーは議会に大きな力を委ねると、1951年の選挙で選出されたモサデク首相が当時イギリスが仕切っていたイランの石油会社を国有化するなど、ロシアよりの動きを見せるようになります。
そうすると、冷戦でロシアと対立する英米はそれに猛反発し、モサデクを失脚させ、次の首相は選挙ではなくモハンマド・レザーによって指名させるようになります。
ここでいわゆる米英の傀儡政権が完成しました。
1956年には、モサデク失脚に関与したアメリカへの見返りとして、今後25年間に渡ってイランの石油利権を、
・イギリス:40%
・オランダ:14%
・フランス:6%
で分割する契約も行います。
その後はアメリカの経済・軍事援助のもとで、1963年には白色革命と呼ばれる近代化・西洋化に向けてのトップダウンの大改革を行いますが、そもそも改革を実施できる地力がない中での大改革は失敗に終わり、イランはまたもや混乱に陥ります。
特に、オイルショックによって貧富の差が増大した貧困層や、西洋化によって立場を追われたイスラームの層の王政に対する不満が大きくなってる中、各地で反政府運動も盛んになり、その運動の中心人物であり、後にイランの指導者となるルーホッラー・ホメイニーは1964年に国外追放となります。
モハンマド・シャーはそのような反乱分子をSAVAKと呼ばれる秘密警察によって弾圧してきますが、1970年代にはもはや手がつけれないほど反体制運動は大きくなり、ついには革命が起こります・・!
つづきは・・・
はい、ということで今回はここまでです。
今回の流れを復習すると、
↓
・ヨーロッパの覇権争いに巻き込まれ、列強の半植民地となる
↓
・グダグダな王朝を倒すべく立憲革命が起こるが、結局失敗に
↓
・パフラヴィー朝がガージャールを倒す
↓
・欧米の支援の元、国内の近代化改革を行う
↓
・欧米化を良く思わない人たちがイラン革命を起こし、パフラヴィー朝転覆
こんな感じですね!
ということで、次回はこちらの記事に続きます〜!