【2/4】イランの歴史をわかりやすく!【イスラーム化〜ペルシャ復興編】
サラーム ジギャール!けんちゃんです!
前回に引き続き、早速名言から!
歴史を知れば、今がわかる。
はい、ということでイランの歴史をわかりやすく解説する企画、第二弾!
前回の記事では、イランの古代からオリエントの統一の時代まで見ていきました。
今回はその後の、アラブで生まれたイスラーム勢力によって征服されてからペルシャの復興するまでの、650年〜1800年くらいの歴史を見ていきましょう!
ちなみに本企画は全4回で、
第2回:イスラーム化〜ペルシャ復興編(650-1800頃)【今記事】
第3回:近代イランの受難編(1800-1979頃)
第4回:イラン革命〜現代編(1979-現在)
以上の形でお送りしていきます♪
それでは早速みていきましょう〜!
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◾️イランの歴史をわかりやすく!イラン好きが観光スポットも絡めて時代系列で解説!
ペルシャのイスラーム化
前回の記事で見てきたサーサーン朝ですが、600年代に入るとローマ軍との戦いで疲弊し弱体化してきた頃に、当時の世界最強集団によって滅亡へ導かれます。
その世界最強集団こそが・・・
イスラーム勢力
ですね!
610年頃に現在のサウジアラビアで生まれたイスラームの共同体は瞬く間に勢力を拡大し、650年頃にはサーサーン朝も滅ぼし、イランを支配することになります。
その後、イスラーム勢力の中で力を持ったムアーウィアがウマイヤ朝を建て、イスラームの共同体を帝国化し、さらに拡大していきます。
ウマイヤ朝(イスラーム帝国 / 651-)
ウマイヤ朝時代のイランでは、イスラームへの改宗は強制では無かったものの、改宗すれば税金を払わなくてよくなったり出世しやすくなったりするためにゾロアスターからイスラームへ改宗する人が増えていきました。
また、この時代のイランの言語はペルシャ語で、文字はパフラヴィー文字というのが使われていましたが、この頃から文字にはアラビア文字が使われる様になり、アラビア語の単語などもイランに多く入ってきました。
ここから、イランのイスラーム化が始まります。
しかし、イスラームへ改宗しても引き続き税金を納めないといけなかったり、何かとアラブ人を優遇するウマイヤ朝に対して、イラン含む各地で反ウマイヤ運動が盛んになり、それを取りまとめたアッバースが750年にアッバース朝を建国し、ウマイヤ朝に変わってイスラーム世界を統治することとなります。(アッバース革命)
アッバース朝(イスラーム帝国 / 750-)
アッバース朝の時代は、ウマイヤ朝時代にあったアラブ人の優遇政策なども少なくなり首都のバグダッドを中心に繁栄を見せるものの、地方では内乱が頻発したりと、決してその権威は領土全体に浸透していませんでした。
イランでも821年にはホラーサーン地方(イラン北東部)を任されたターヒルが自立し、ターヒル朝を開いたかと思うと、861年にはイラン南東部を中心にサッファール朝が成立、その後も875年にウズベキスタンを中心に起こったサーマーン朝がイランを勢力を伸ばすなど、複数の王朝が乱立します。
ターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝は全てイラン系の王朝でしたが、あくまでのアッバース朝の地方政権という位置付けでしたのでイラン人国家が独立!という訳ではありませんでしたが、この時代にはペルシャ文学が非常に発達し、フェルドウスィーなどの今もなお愛される詩人が生まれています!
また、カスピ海沿岸地域からはズィヤール朝(873-)やブワイフ朝(932-)などのイラン系王朝が成立し、力を轟かせることとなります。
この様に、これらの時代の名目上の支配者はアッバース朝でしたが、代わる代わる出現したイラン系王朝の元、イランの土着文化とイスラーム文化が融合し、独自の文化が形成されていくこととなります!
トルコ系とモンゴル系の台頭
一方、10世期の半ばごろの中央アジアではテュルク系(トルコ系)の遊牧民族が力をつけていき、イラン系の王朝もその力に押され始めてきました。
セルジューク朝(イスラーム帝国 / 1038-1308)
まずはテュルク系のガズナ朝が955年に成立すると、その後しばらくして1038年に建てられたセルジューク朝があっという間に勢力を拡大、イラン全土はじめ、西はトルコ、東はウズベキスタンまで勢力を伸ばします。
しかし、トルコ系の王朝とはいえ行政の中心はペルシャ人の官僚たちがペルシャ語で行っていたので、この時代でもペルシャの伝統や文化などは廃れることはなく、発展を遂げていきます。
代表的な文化人としては、詩人としてだけではなく天文学者としても名を馳せた、ウマル・ハイヤームなどはこの時代の人ですね!
その後セルジューク朝は1200年頃には、かつての地方政権で同じくテュルク系のホラズム・シャー朝にイランから追い出され、変わってホラムズ・シャー朝がイランを統治します。
そんな中、13世紀にはイラン、いや、イスラーム世界を恐怖のどん底に落とし込む事件が起ります。
それが・・・
モンゴル帝国の侵略
です。
イルハン朝(モンゴル帝国 / 1258-1353)
1206年にチンギス・ハーンが建国したモンゴル帝国は、その圧倒的な軍事力を武器に西を攻め、徹底的な略奪と破壊とともにイランを制圧、1258年にはイラクに入りアッバース朝を倒し、チンギス・ハーンの孫であるフレグ・ハーンはイルハン朝を成立し、瞬く間に中東はモンゴル帝国の一部となります。
しかし、イルハン朝がイランにもたらしたものは破壊と略奪だけではなく、都市や文化の発展にも非常に大きな影響を与えました。
例えば、現在でも最も有名なイランの工芸品の一つとされる細密画(ミニアチュール)はモンゴル帝国経由で伝わってきた中国美術の影響を大きく受けていますし、7代目国王であるガーザーン・ハーンの指示によってペルシャ語で書かれた歴史書「集史」は、現在でもアジア〜オリエントの歴史を読み解く上で欠かせない本となっています。
また、世界遺産であるゴンデバ・ソルタニーイェは8代目国王のオルジェイドゥのお墓として建てられましたし、イルハン朝の首都として栄えたタブリーズでは、アルゲ・タブリーズなどこの時代の痕跡も楽しむことができます!
ちなみに、モンゴル帝国はイスラーム教国家ではないのでイルハン朝も建国しばらくはイスラームではありませんでしたが、ガーザーン・ハーンの時にイスラーム国家へと変わっていきましたので、イランでも引き続きイスラームの信仰が続けられました!
そんなイルハン朝ですが、1300年ごろから激化し始めたチンギス・ハーンの子孫による権力争いに乗じて、1370年に興ったティムール朝がイルハン朝に変わってイランを仕切るようになります。
ティムール朝(モンゴル帝国 / 1370-1507)
1370年にイラン北部を中心に建国したティムール朝は、瞬く間にシリアやトルコまで征服し、一大帝国を築き上げます。
しかし、西側からテュルク系の国が自立し始め、1375年には黒羊朝、1378年には白羊朝が成立し、特に白羊朝は1400年代にはほぼイラン全域を統治するものの、内紛などで国力が低下し、ついには1508年にはサファヴィー朝に滅ぼされます。
ペルシャの復活と繁栄
さて、ここからはイランの歴史を語る上で非常に重要なゾーンに入っていきます。
というのも、サーサーン朝がイスラーム勢力に飲み込まれてから約800年間、イランはアラブからやってきたイスラーム勢力や、トルコやモンゴルからやってきた遊牧民族などに国を統治され続けてきました。
そんな中、このサファヴィー朝は8世紀振りのイラン人による王朝で、現在のイランの国教となっているイスラム教シーア派、十二イマーム派を国教と定めイラン全国に浸透させた、現在のイランの始まりとも言える王朝なのです。
サファヴィー朝(1501-1736)
サファヴィー朝の起源は、イルハン朝時代にイラン北西部のアルダビールにてサフィー・ウッディーンが起こしたイスラーム神秘主義を掲げるサファヴィー教団でした。
彼らは現在のアゼルバイジャンあたりのテュルク系民族を味方につけ勢力を拡大し、ついには白羊朝や、先にティムール朝を滅したウズベキスタンのシャイバーニー朝を滅し、初代王・イスマイール1世率いるサファヴィー朝がイランを治めるようになります。
この時代のサファヴィー朝の特徴としては、宗教の力によってテュルク系の軍事力を手に入れた点です。イスラームの教えに加え、当時トルコ系遊牧民が信仰していたシャーマニズム的思想をミックスし、イスマイール1世を神格化させることでフォロワーを集め、力を拡大していきました。
そんな中、当時トルコを中心に絶大なる軍事力を誇っていたオスマン帝国を戦うことになるのですが、世界でいち早く大砲や鉄砲を駆使するオスマン帝国の圧倒的武力の前にサファヴィー朝は惨敗し、イスマイール1世の神格化も崩れ、徐々にその教義もイスラームの教えに基づくように再編されていき、それが現在の十二イマーム派へと続くこととなります。
その後サファヴィー朝は、オスマン帝国などの侵略や国内の権力争いなどで国が安定しない時期が続きますが、アッバース1世が1587年に5代目シャー(王)に即位し、軍や体制の改革を行うことによりサファヴィー朝は安定した繁栄を見せるようになります。
中でも有名な改革は、都をイスファハーンに移し、イマーム広場を中心とした大規模な都市を作ったことですね!
その結果イスファハーンは非常に栄え、政治や宗教、商業、芸術などペルシャの全てが集結する様は「イスファハーンは世界の半分だ」と言われるまでになりました!
さらにアッバース1世は、イスマイール1世の時代にボコボコにされたオスマン帝国にも戦いを挑みアゼルバイジャンを奪い返すと、さらにはイギリスと手を組み、大航海時代の大国・ポルトガルからホルムズ島を奪取するなど、軍事的にも大きな成功を収めます!
オランダやフランスなどのヨーロッパとの大国とも良い関係を築き、そのカリスマ的手腕でペルシャを大国へと返り咲かせたアッバース1世ですが、1629年に死去します。
その後はサフィー1世やアッバース2世などが後を継いでいきますが、アッバース1世ほどの手腕はなく、1638年にはオスマン帝国にイラクを奪われ、東からはアフガンからの侵略を受け、さらに国内は権力争いなどで混乱に陥り国力は低下し続け、遂には1736年にはナーディル・シャーがサファヴィー朝に代わりアフシャール朝を建て、サファヴィーの時代も終わりを告げます。
アフシャール朝(1736-1796)
ナーディル・シャーは破竹の勢いで東西へと領土を拡大し、オスマン帝国からはイラクを奪い返し、さらには西側はインドのデリーまで手中にします。
その後、ナーディルは在位11年で家臣に暗殺されて生涯を閉じますが、その短い期間の中でインドからトルコ東部までの広大な領域を支配下に治めたその手腕は現在でも伝説とされており「ペルシアのナポレオン」と呼ばれるほど、現在も多くの人に愛されています。まるでイラン版織田信長ですね!
ナーディルの死後、アフシャール朝は急激に衰退し、シーラーズのカリーム・ハーン率いるザンド朝がとって変わって台頭します。が、ザンド朝もカリームの死後、イラン北部のガージャール部族によって滅ぼされることとなります。
つづきは・・・
はい、ということで今回はここまでです。
今回の流れを復習すると、
↓
・その後のアッバース朝時代は、イラン人の地方政権が乱立
↓
・テュルク系のセルジューク朝がアッバース朝の元、イランを統一
↓
・世界最強集団、モンゴル帝国がアッバース朝を倒し、イルハン朝と設立
↓
・ティムール朝時代にモンゴル帝国の勢いが低下
↓
・サファヴィー朝がモンゴル帝国を弾き出し、シーア派をまとめあげる
↓
・アフシャール朝がサファヴィーを倒すも、すぐに滅亡
↓
・ガージャール部族の台頭
こんな感じですね!
ということで、次回はこちらの記事に続きます〜!